テルギ terugi
Olá! Eu sou um brasileiro de 18 anos. Moro em Porto Alegre, no sul do Brasil. Eu estudo Japonês e Literatura na Universidade. Gostaria de fazer amigos ao redor do mundo.
Hello! I'm a brazilian 18 years old guy. I live in Porto Alegre, on the south of Brazil. I study Japanese and Literature at University. I'd like to have friends all around the world.
こんにちは!僕はブラジルで、十八歳です。ポルト・アレグレに住んでいます。ブラジルの南です。大学で日本語と文学を勉強しています。世界中の友達が欲しいです。
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2013-04-28
Source: drrestless
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2013-03-21
南京事件(なんきんじけん)は、日中戦争(支那事変)初期の1937年(昭和12年)に日本軍が中華民国の首都南京市を占領した際、約6週間から2ヶ月にわたって中国軍の捕虜、敗残兵、便衣兵、一般市民を不法に虐殺したとされる事件。「南京大虐殺」とも呼ばれ、その真偽や程度などが論議されている(南京大虐殺論争を参照)。
名称
近年の歴史教科書[要出典]・研究書[1]などでは単に「南京事件」と表記されることが多いが、東京裁判で初めて名称が登場した際には「南京暴行事件」と呼称され、その派生名として「南京虐殺事件」という呼称もなされた。
また、「南京大虐殺」という名称は本多勝一が『中国の旅』の中で使用したのが最初とされ以降広まった。また「南京虐殺」という表記も一般に使用される場合がある。
中国または台湾(中華民国)[2]では「南京大屠殺」と呼び、欧米では「Nanking Atrocities」あるいは「Rape of Nanking」と呼ばれることが多い。「南京事件」という呼び方は、不法殺害の他に暴行・略奪・放火の意味も含めて事件全体を広く論じる場合によく使われる。
論争
詳細は「南京大虐殺論争」を参照
この問題は事実存否や規模、殺害人数などを巡って現在でも議論が続けられている。近代史における日中関係を考える上でデリケートな問題であり、2010年の日中歴史共同研究公表[3]に際し、中国側主席委員・歩平が「単に被害者数の問題だけでなく、最も重要なのは大規模な残虐行為(が行われた)という認識を持つことである」との発言[4]からも伺えるように、特に中国側から見て単なる事実(史実)調査にとどまらない教導的論点が含まれる。
また検証において、事実存否や規模、戦闘行動と戦争犯罪(不法殺害)の区別、殺害人数に諸説あり、これらを巡って今なお議論が続けられている。
事件の概要
南京攻略戦
詳細は「南京攻略戦」を参照
1937年8月9日から始まった第二次上海事変の 戦闘に敗れた中国軍は撤退を始め、当時、中華民国の首都であった南京を中心として防衛線(複郭陣地)を構築し、抗戦する構えを見せた。日本軍は、撤退する 中国軍に対し追及を始めたが、兵站が整わない、多分に無理のある進撃であった。日本軍は、中国軍の複郭陣地を次々と突破し、12月9日、南京城を包囲し、翌日正午を期限とする投降勧告を行った。中国軍がこの投降勧告に応じなかったため、12月10日より日本軍の総攻撃が始り、12月13日、南京は陥落した。
残虐行為について
日本軍入城以前の南京は、日本軍の南京接近にともなって南京市民が恐慌(kyoukou/panic)状態(jyoutai/condição)となり、親日派の中国人、日本人留学生などを「漢奸狩り」と称(shou)して中国人が虐殺する事件が相次いでいた。
日本軍は、南京への進撃(shingeki)中から諸種(shoshu)の残虐行為を行ったと言われ、南京周辺(shuuhen)の町村において、被害(higai/damage)の報告が挙(a)げられている。また、1937年12月13 日の南京陥落(kanraku)の翌日(yokujitsu/next day)から約6週間にわたって行われた南京城(shiro/castle)の城内・城外の掃討(soutou)でも、大規模(daikibou)な残虐行為が行われたと言われている(城内は主に第16師団(shidan)(師団長:中島今朝吾)が掃討を行った)[5]。
市民への虐殺
市民への虐殺については、そのことを直接指示(shijj)する命令書は確認(kakunin)できない。中国人側からは、理由もなく暴行(boukou/assalt)を受けたり、家族や周辺の人々が殺害されたと証言(shougen/evidências, testemunhos)が出ている[6]
当時南京に残留(zanryuu/residual)して南京国際安全区委員長を務(tsuto)めていたジョン・ラーベは、 安全区の警護(keigo/escolta)のために残されていた中国軍や発電所の技術者が、日本軍によって大量殺害されたことを記録[kiroku]に書き残している。一方で、ドイツ大使館やイギリス 大使館など、報告する大使館によって被害者(higaisha/vítima)数が6万人から50人以下まで報告の内容がまちまちであり、全て伝聞(denbun/rumor)の情報を元にした数字であって本人は一度も 虐殺とされるものを目撃していないことから、信憑性(shinpyousei/autenticidade.credibilidade)を疑う(utagau/dúvida)説もある[7]。
捕虜・投降兵の虐殺
第16師団長である中島今朝吾中将は、日記において、「捕虜ハセヌ方針」、即ち捕虜を取らない方針であることを書いている。この方針に基づいて、 南京城内外での掃討で、中国軍の中の多くの捕虜や投降兵が殺害されたのではないかと見られている。南京の北方に位置する幕府山では、山田支隊(第65連隊 基幹、長・山田栴二少将)が捕虜約14,000名を殺害したと言われている。山田少将は上部組織からの命令があったことを日記に書いているが、最終的な虐殺と数字については疑問視されている[8]。南京北部の下関では、捕虜が収容された後に殺害され長江に捨てられたことが、日本側、中国側、そして残留外国人の記録や証言に示されている。第114師団第66連隊第1大隊の戦闘詳報では、旅団命令によって捕虜を殺害したことが記録されている[5]。
外国メディアによる報道
この事件は主に軍人や外国の情報に触れる事の多かった外交官などに南京の欧米人から報告がなされている(前者の代表的な例としては陸軍中将 岡村寧次関係の記録が、後者の代表的な例としては外務省欧亜局長 石射猪太郎の日記が、それぞれ挙げられる)。軍人が戦地から内地に宛てた手紙がもとで日本国内でも流言になっていたという説もある。
アメリカでは、『シカゴ・デイリーニューズ』や『ニューヨーク・タイムズ』、中国では『大公報』などのマスコミによって“Nanking Massacre Story”,“The Rape of Nanking”,“Nanking Atrocities”として報道されていた。南京に在留していたジャーナリストは日本軍の南京占領後しばらくして脱出したため、事件の全容が報じられたわけではないが、事件初期における日本軍が行ったとされる殺人、傷害、強姦、略奪などの犯罪行為がほぼリアルタイムで伝えられていた。無線が日本軍によって管理されていたため、彼らは南京を脱出して日本軍の占領後に行なわれたとされる略奪や殺人を船舶の無線を使って報道した[5]。
一方で、これらの報道にも反論があり、まず外交官への報告であるが唯一確認できる報告がイギリス人外交官の外電でありその内容は「頻発する殺人」と 伝えているが当時南京の欧米人が目撃した殺人事件は存在せず全て中国人からの伝聞によるものであるため虚偽報告の可能性が指摘されている。虚偽報告を伝え た要因として当時の中国政府から大量の献金を受け取りそれにより買収され反日的報道をした可能性を東中野らが主張している[7]。
渡部昇一は、欧米人は便衣兵や攪乱兵の存在を知らず、それらの掃討を市民の殺害と誤認した可能性があると主張している[9]。また当時『ニューヨーク・タイムズ』に掲載された「南京虐殺の証拠写真」とされる写真も虚偽写真の可能性が指摘されている[7]。無線を通じた報道も全て中国人からの伝聞をもとにして報道していたためその正確性には問題があるという主張もある[7]。また内地への手紙も手紙自体は確認できるもののその正確性や信憑性に疑問が呈されている(例えば虐殺行為を内地へ手紙で送ったとしても検閲で落とされるため)[7]。
また上海から南京まで追撃される中国軍に従軍していた『ニューヨーク・タイムズ』のティルマン・ダーディン通信員は、1989年10月号の『文藝春秋』においてインタビューに答え、「(上海から南京へ向かう途中に日本軍が捕虜や民間人を殺害していたことは)なかった」と断言し、「私は当時、虐殺に類することは何も目撃しなかったし、聞いたこともありません」と述べていることが伝えられている。
議論については「南京大虐殺論争#主な論点」を参照
被害者数と事実在否について
2010年1月公表にされた日中歴史共同研究によれば、中国側は南京戦犯裁判の30万人説や東京裁判の20万人説と、いずれも戦後行われた裁判の判決に依った犠牲者数を主張している[10]。
一方日本国内においては20万人説、数万人説、数千人説、否定説などが存在する。
否定説の一つ は、1938年1月26日に開催された国際連盟理事会にて、中国政府代表の顧維均が日本を非難し、「日本が南京を攻略した際、2万人の民間人を虐殺した、 これに対し国際連盟は行動をとるべきだ」と主張したが、連盟側は「そんな事実はあり得無い」として受け入れなかった事実があるとしている。[要出典]
事件の背景について
事件の背景として、南京の前にも、日本軍は移動中に上海、蘇州、無錫、嘉興、杭州、紹興、常州のような場所でも捕虜や市民への虐殺・略奪を続けていたとされ、日本軍将兵の従軍日記や回想録から、進軍中にそれらが常態化していたのではないかと疑われている[5]。一方で、「中国軍が民間人を巻き込むため国際法で禁止されている便衣戦術(ゲリラ戦術)を採っていたため」(南京大虐殺論争#虐殺の範囲を参照)という理由や、中国軍が後退する中で後に来る日本軍に陣地構築の資材や建物など、利用できるものを何も与えない為に、中国人自身による民間人の虐殺、民家焼却を行う空室清野戦術によると見る向きもある[7]。また兵士の日記についても通常一兵卒が所持する事が出来ないはずの万年筆で毎日の様に記録されていることから、従軍中にそのような余裕はなく捏造ないしは誇張されたものであるとする指摘もある[11]。
戦争裁判
この事件は第二次世界大戦後、戦争犯罪として極東国際軍事裁判と南京軍事法廷で審判された。
極東国際軍事裁判では、事件当時に中支那方面軍司令官であった松井石根(当時、陸軍大将)が、不法行為の防止や阻止、関係者の処罰を怠ったとして死刑となった。
南京軍事法廷では、当時、第6師団長だった谷寿夫(当時、陸軍中将)が起訴され死刑となった。谷は申弁書の中で虐殺は中島部隊(第16師団)で起きたものであり、自分の第6師団は無関係と申し立てを行っている。その他、百人斬り競争として報道された野田毅(当時、陸軍少尉)と向井敏明(当時、陸軍少尉)、非戦闘員の三百人斬りを行ったとして田中軍吉(当時、陸軍大尉)が死刑となった。
一方、上海派遣軍の司令官であった朝香宮鳩彦王(当時、陸軍中将)については訴追されなかった。これは朝香宮が皇族であり、天皇をはじめ皇族の戦争犯罪を問わないというアメリカの方針に基づいている。
南京陥落までの状況
日本側
1937年11月、第二次上海事変に投入された上海派遣軍と第10軍は、上海で中国軍を撃ち破った勢いに乗り、軍中央の不拡大方針を無視して首都 南京に攻め上った。12月1日、軍中央は、現地軍の方針無視を追認する形で、新たに両軍の上位に編成した中支那方面軍に対し南京攻略命令を下達した。12月8日、中支那方面軍は南京を包囲、12月9日、同軍司令官の陸軍大将松井石根は、中国軍に対し開城(降伏)を勧告した。
中国軍が開城勧告に応じなかったため、12月10日、日本軍は攻撃を開始し、12月13日に南京城を陥落させた。
中国(中華民国)側
1937年11月5日、上海に攻め込んでいた中国軍は、杭州湾に上陸した日本陸軍第10軍に背後を襲われる形となり、指揮命令系統に混乱を来たしたまま総退却した。11月15日から11月18日にかけて、南京において高級幕僚会議が行われ、トラウトマン和平調停工作の影響の考慮から、南京固守作戦の方針が決まった。11月20日蒋介石は南京防衛司令官に唐生智を任命し、同時に重慶に遷都することを宣言し、暫定首都となる漢口に中央諸機関の移動を始めた。
11月下旬、南京防衛作戦のため、緊急的(場当たり的)な増兵を行なった結果、南京防衛軍の動員兵力は約10万人に達したと言われる(台湾の公刊戦史他)。12月7日、南京郊外の外囲陣地が突破され、南京は日本軍の砲撃の射程内に入り、また、空爆が激しくなってきたことから、蒋介石は南京を離れた。この後、中国軍の戦線は崩壊し続け、12月11日、蒋介石は南京固守を諦め、唐生智に撤退を命令した。一方、唐生智は死守作戦にこだわったが、12月12日夕方には撤退命令を出した。しかし、すでに命令伝達系統が破壊されつつあり、命令は全軍に伝わらなかった。12月13日、南京城壁は突破され、中国軍は総崩れとなった。
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2012-11-30
Shelter ♥
Source: pelennors
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2012-08-29
Source: lolicage
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2012-08-20
Source: dontbetardyfortheparty
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2012-05-06
Três Porquinhos de Galápagos
Chegou uma notícia a um vilarejo distante de que o famoso e furioso Lobo Mau atacaria em breve. As cidades vizinhas estavam sendo atacadas há três dias. O lobo saqueava casas e as destruía. No ritmo em que tudo acontecia, provavelmente ele chegaria ao vilarejo em quatro dias.
Dentre os habitantes desse lugar, viviam três irmãos porquinhos. Quando souberam da possível breve chegada do lobo, o primeiro irmão mandou chamar aos outros. O primeiro irmão morava em uma casa de palha, o segundo em uma de madeira e o terceiro em uma de tijolos. Na reunião, o primeiro dizia que deveriam preparar rapidamente todas as defesas para as casas. O segundo respondeu que a sua tinha certa resistência, e que por isso amanhã ou depois ele a incrementaria com algo. Afinal ainda tinham quatro dias. O terceiro irmão deu gargalhadas e disse que confiava na sua casa de materiais resistentes.
Durante os quatro dias o irmão da casa de tijolos divertiu-se. O da casa de madeira começou a colocar uma fechadura a mais nas portas lá pelo terceiro dia. O da casa de palha passou pesquisando em livros e buscando matéria prima na floresta próxima. Quase não pode descansar.
O lobo chegou exatamente no tempo previsto: quatro dias. A casa do segundo irmão era a mais próxima da entrada da vila. O lobo usava uma técnica de sopro, então a fechadura extra não fez diferença. Ele derrubou a casa e roubou o que queria.
Chegando a casa do terceiro irmão o lobo teve que pensar. Sabia que não conseguiria soprar materiais tão resistentes, então lembrou-se que o telhado da casa não era de tijolos, mas de telhas mais leves. Então subiu lá em cima e soprou a partir de lá, o que fez com que a casa ficasse igualmente inabitável. Em seguida, roubou o que queria.
Ao chegar na casa do primeiro irmão, o lobo viu o material de palha e achou que não teria trabalho algum. Ao aspirar para depois soprar na casa, o lobo sugou algum pó esquisito que havia próximo das paredes, vindo das palhas. Isso fez com que ele ficasse sem ar, deixando uma deixa para o porquinho surgir pela porta e bater em sua cabeça. O irmão havia descoberto que o lobo usava uma técnica de ar. Depois descobriu uma propriedade que afetava o sistema respiratório em folhas da região. Transformou-as em folhas secas e fez um pó com elas, o qual aderiu à parede externa da casa. Assim, venceu o lobo.
A desvantagem primária é uma vantagem. -
2012-01-01
(via madzerro)
Source: connorsama
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2011-12-27
Source: dontbetardyfortheparty
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2011-11-02
Name The Office of Letters and Light
First Post August 2010
Location BerkeleyThe Office of Letters and Light organizes events where children and adults find the inspiration, encouragement, and structure they need to achieve their creative potential. One such event, National Novel Writing Month (NaNoWriMo), takes place all November—which means it starts today! NaNoWriMo challenges you to write a 50,000-word novel, from scratch, in the month of November. Participants exchange advice and writing tips on the web and through group write-ins held in coffeeshops, living rooms, and libraries all around the world. Last year, 200,500 people took part!
Also check out…
Mati Milstein / Photojournalist
Shooting in Israel and the Palestinian territories for global media outlets, diplomatic missions, NGOs & private companies.Obit of the Day
Looking at the famous, infamous, not-so-famous, and unique lives that have shuffled off this mortal coil.One Thing Well
A weblog about simple, useful software.Source: staff
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2011-11-01



